[ スペシャル ]
キャストインタビュー
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冬ノ熊肉さん / 尾田進 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした!今回の企画についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
尾田進役・冬ノ熊肉さん(以降、「冬ノ熊肉」):これは難しいぞ……! というのが第一印象で、やはり難しいお話でした……。
――演じられたキャラクターの魅力をお伺いできますでしょうか。
冬ノ熊肉:真っ直ぐで明るくて、作中のような状況だからこそ希望を抱いて音楽に没頭する姿でしょうか。
どんな事があっても愛を忘れない、どこまでも愛をどんな形でも愛を……さとう……。――尾田進を演じるにあたって心がけた点や難しかった点、または演じやすかった側面などありますでしょうか?
冬ノ熊肉:私の勘が鈍いのもあり、お手数をおかけしてしまいまして……。
時代の背景、その時代に生きる若者の前を向こうとするエネルギー、話すテンポ、リズム、感情………。
1トラック目は私の納得がいくまで何度もトライさせていただき……すみませんでした!――キャラクター作りにとても真剣に向き合っていただき大変ありがとうございました。おかげさまで理想以上の尾田進になりました!
――今回の収録で印象に残ったシーンや台詞はありましたでしょうか? また、聞きどころをぜひご紹介してください!
冬ノ熊肉:今回はあえてこんな言葉で聞きどころを。
「さとうは、甘い」どんな甘さでしょうか。――進の実家が宝飾店ですが、アクセサリーに関して何かエピソードはありますでしょうか?
冬ノ熊肉:詳しく、何を指に嵌めたかは覚えていないのですが……輪っかを嵌めて抜けなくなり、石鹼とか使っても抜けなくて泣いた小学生時代があります。
ちなみに叔父に輪っかは外してもらえました。――進になりきってヒロインにひと言お願いします!
冬ノ熊肉:英語で書くとSaxophone。そう、サクソフォーン。サックスって口語の略称らしいぜ。
――最後に、CDの発売を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします!
冬ノ熊肉:全四巻のキャバレーと角砂糖。今回は一巻目、尾田進の声を担当させていただきました。
さて、彼らはどんな道を歩み、選択をするのでしょうか。お聞き届けていただけましたら幸いです。 -
土門熱さん / ジョン・カワグチ 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした!今回の企画についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
ジョン・カワグチ役・土門熱さん(以降、「土門熱」):遠い昔の日をモチーフにしたシナリオでしたが、セピア色ではない鮮やかな彩りを感じられました。
――演じられたキャラクターの魅力をお伺いできますでしょうか。
土門熱:日系人としてのコンプレックス、時代のプレッシャーを内包しつつも、個としての人生を精一杯歩んできた人だと思いました。
――ジョン・カワグチを演じるにあたって心がけた点や難しかった点、または演じやすかった側面などありますでしょうか?
土門熱:変にカタコトにしないように心掛けました。
軍人として、人として、核になるものがあるヒトであるように。――今回の収録で印象に残ったシーンや台詞はありましたでしょうか? また、聞きどころをぜひご紹介してください!
土門熱:時代感みたいなものが全体から伝わればいいなと思っています。
――戦後日本が舞台ですが、この時代にどんな印象や思いをお持ちですか?
土門熱:立ち上がる生命力!
――ジョンになりきってヒロインにひと言お願いします!
土門熱:貴女は自由だ!
――最後に、CDの発売を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします!
土門熱:是非、ジョンだけでなく、他のドラマもお聴きいただいて、作品の世界の奥行を感じてみてください。
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茶介さん / 不破学 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした! 今回の企画についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
不破学役・茶介さん(以降、「茶介」):時代背景・設定がとても好みで、是非やってみたいと思いました。
――演じられたキャラクターの魅力をお伺いできますでしょうか。
茶介:終戦から高度経済成長期へ向かう、良くも悪くも日本が前に進もうとした時代を生き抜こうとした人。したたかで強く、汚れることを厭わない。
――不破学を演じるにあたって心がけた点や難しかった点、または演じやすかった側面などありますでしょうか?
茶介:昭和の、まだ白黒映画の頃の芝居をやってみたくて挑戦しました!
台詞に小細工をしない、粗さと熱量だけのような強い台詞。今回わがままを通してくださったひつじぐもさんに感謝です!
――今回の収録で印象に残ったシーンや台詞はありましたでしょうか? また、聞きどころをぜひご紹介してください!
茶介:たまに出る「~になっちまった」がとても時代感がありました。
――学が現代で生きるとしたらどんな生活をしていそうでしょうか?
茶介:学生時代から起業してそう。
――学になりきってヒロインにひと言お願いします!
茶介:「地獄の果てまで共に行こう」
――最後に、CDの発売を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします!
茶介:社会が、世の中が、あまりに急激に変わりつつあった時代。
翻弄され、それでも必死に生きようとした人達のお話です。
汗と泥と熱を強く感じて頂けたら嬉しい限りです!
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早川優雅さん / 山野辺響 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした!今回の企画についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
山野辺響役・早川優雅さん(以降、「早川優雅」):現代劇ではなく1968年という少し昔の時代の作品ですので、いつもとは少し違う演技のテイストでいったほうがいいのかなと収録前は想像していました。でも、やはり時代は違っても同じ人間劇ではあるので、そこまで難しく考えずにすっと役に入り込めたような感じはしますね。
シチュエーションCD作品は久々に出演したので、今終わって、不思議な達成感でいっぱいです。
――演じられたキャラクターの魅力をお伺いできますでしょうか。
早川優雅:明るく気さくで優しいだけではなく、自分が手に入れたいと思うものを求める強引さといった人間臭さが時に見えて、男としてかっこいいなと思いました。
また、響が父親のことを『情けない』と思って突っぱねた態度をとっていても、父親に対するリスペクトをきちんと持っているところが素敵だなと思いました。色々と経験を積む中で、広い視野や考え方を持って、父親の気持ちに気づける器の大きさというか、考え方のキャパの広さに、非常に好ましい印象を受けました。
――山野辺響を演じるにあたって心がけた点や難しかった点、または演じやすかった側面などありますでしょうか?
早川優雅:最初の役作りの段階で、どのぐらい生っぽい音のニュアンスで演じるのかを突き詰めていくのが一番大変だったなと思います。
演じやすかった面は響の性格や境遇が自分に似ていたので、寄り添いやすいキャラクターだった点ですね。
――今回の収録で印象に残ったシーンや台詞はありましたでしょうか? また、聞きどころをぜひご紹介してください!
早川優雅:響とヒロインが一緒に『どうやったらキャバレーを盛り上げていけるか』というアイデア出しをするシーンが個人的にすごく面白かったです。恋愛描写以外の展開でも、アイデアを共有しながら一緒に成長していく、というのが垣間見えて、すごくよかったなと思います。
――響の考えや歌への姿勢等で、共感できることや同じだと思うことなどはありましたか?
早川優雅:響の明るく気さくな性格は、僕自身もわりと『陽キャ』と言われるタイプなのでリンクする部分が多かったと思います。
また、僕自身も芽が出なかった時期が長く、歌でなかなか花開かない響に共感する部分が多かったです。
――1968年に行けたとしたら、どんなデートをしたいですか?
早川優雅:特典で横浜デートがありますけど、僕自身神奈川出身で横浜は慣れ親しんだ場所なので、1968年の横浜はどういう風な景色が映っていたのかデートしに行きたいですね。
――響になりきってヒロインにひと言お願いします!
早川優雅:「俺を選んでくれたから、一生愛し続けるよ」
――最後に、CDの発売を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします!
早川優雅:本当にこういうテイストの作品に出演するのは久々なので、非常に力を入れて収録に臨みました。
今回はキャバレーでの歌い手の役ということで、僕自身も歌の活動をしているという点で非常に共感できるキャラクターを演じられてよかったなと思っております。
作中では自身ではなかなか歌う機会が無いジャズのかっこいい曲を歌っていたり、ヒロインとの絡み以外の部分でも素敵なドラマが繰り広げられていたりと、1枚で色んな要素を楽しめる作品になっていると思いますので、ぜひともたくさんの人に聴いていただければなと思います。
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猿飛総司さん / 城井弦 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした!
――今回の企画についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
城井弦役・猿飛総司さん(以降、「猿飛総司」):時代設定から背景、取り扱っているものも含めて、なかなか重いものを扱っているなと思いました。台本を読み進めていくと当たり前に麻薬が出てきたりして、「戦後の日本ってそうだったよな」としみじみと感じさせられる作品です。時代考証もしっかりされているので、それに合った芝居をしなければと思いましたね。
――演じられたキャラクターの魅力をお伺いできますでしょうか。
猿飛総司:僕にとっておじいちゃんの世代の人々になりますが、皆、ある種の悲劇を背負っていると思うんです。弦も色々なものを背負っていますが、それでも自分なりに前を向いている。自分がやりたいことをちゃんと見つけて、どうしていきたいかをはっきり思っている人間なんです。弦だけでなく、きっとその時代の人々がそうだったのかと思いますが、強さを感じました。
――城井弦を演じるにあたって心がけた点や難しかった点はありますでしょうか?
猿飛総司:まず時代に合った喋り方にこだわりました。ディレクションを受けながら最初にすり合わせていって、自分が最初に持っていたプランとは結構違うものになりましたが(笑)。僕が演じさせていただいたシチュエーション作品の中では珍しい喋り方をずっとしていて、古い映画を見た経験が役立ちました。
――古い映画というと?
猿飛総司:「男はつらいよ」。チャキチャキの江戸っ子弁があの作品にはありますよね。昔の映画を見ていると、みんな喋るのが早いんです。自分の祖父のイメージでも、おじいちゃんって喋りが遅いのかなと思うけど実際は結構早い。あの時代はみんなが急いでいたというか、今ほどゆったりしていなかったんだなと思いながら演じました。
――当初と違うプランとのことでしたが、違う弦が生まれていた可能性もあったのでしょうか?
猿飛総司:はい。基本的にシチュエーション作品では一文字一文字大事にするべきだと思って、普通の喋りよりもゆっくり目に喋ることが多いんですが、今回はかなり早くしました。耳元のシーンなどはそのままいくと台詞が少し面白く聞こえてしまうかもしれないのでグラデーションをつけましたが、台詞の雰囲気を残すか、聞き馴染みのいい声にしていくかという調整が難しかったですね。
――演じやすかった側面などありますでしょうか?
猿飛総司:弦は結構はっきりした性格なので、頭が良いところや感情を大きめに出すところ(特典等)は演じやすかったです。最初の方で長く説明するシーンは家で読んだ時、結構難しいかなと思っていたんですが、実際に演じてみたら、ずらずらずらずらガンガンガン!「ちょっと聴いてるか?」ってバッと喋るスタイルが弦にはまっていて、逆に演じやすかったです。
――今回の収録で印象に残ったシーンや台詞はありましたでしょうか? また、聞きどころをぜひご紹介してください!
猿飛総司:キャバレーに潜入するシーンが面白かったですね。特に聞いてほしいのは、一瞬だけ頑張って英語を喋っている弦のシーンです。和製英語的なものですが(笑)、弦はまだ英語を知らないゼロベースの状態なので。また、潜入して小声でこそこそ喋っているところも、聞き手の人と一緒になっている感じがして楽しかったです。
――弦は記者として「〈東京ローズ〉の正体」を追い続けますが、猿飛さん自身が記者だったらどんな記事を書きたいですか?
猿飛総司:僕が記者だったら、弦も言っていたように、弱い人を救うような記事を書きたいと思う。でもそれは強いものの闇を暴くことになるから、闇を暴くって怖いよなと思うし、誰かがやってくれないと闇のままだと思うから……正直、記者にはなりたくないです(笑)。どうしても書くなら、幸せな記事がいいですね。「犬が生まれました」みたいな(笑)。
――最後に、CDの発売を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします!
猿飛総司:僕、猿飛総司にとってまた一つ新たな扉を開けてもらった作品、新しいことをやらせていただいた作品になっています。普段の僕を知っている方でも、また新しい気持ちでこの城井弦というキャラクターを聞いていただけるんじゃないかと思っております。ぜひその時代に思いを馳せて、聞いていただけたら嬉しいです。
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河村眞人さん / 鳴瀬明 役
――収録ありがとうございます。お疲れさまでした!
鳴瀬明役・河村眞人さん(以降、「河村眞人」):収録の前日はお酒を飲まないんですが、今回は一杯やりました(笑)くたびれた感じが出るかなあって。
――飲酒で声が変わるんですね(笑)崩れた感じ、出ていました。
河村眞人:良かったです。こちらこそありがとうございます。
――まずは『キャバレーと角砂糖』についての印象や感想を教えていただけますでしょうか。
河村眞人:現代劇の日常を切り取った作品ではなく、しっかりと戦後日本の世界観が構築された作品だったので、難しそうだなという印象が最初にありました。
でも、絵も素敵ですし好きな人はすごく好きな雰囲気なので、難しそうだと思いながらもとてもやりがいのある作品だなと思いました。
――演じられたキャラクター・鳴瀬明の魅力をお伺いできますでしょうか。
河村眞人:時代が時代なだけに、明君は極限状態にあってトラウマを抱いて、冷静じゃない部分があるじゃないですか。で、今の価値観でいったらクズだなって思うこともやってると思うんですよね。
――明は今の価値観では測れない部分が多かったですね。
河村眞人:明君があの極限状態を経験しながら、最終的には何とかなってるというか、落ちるとこまで落ちていないのは、もうそれだけで強いんじゃないかなって思うんですよね。この時代には立ち直れない人とか、目の光を失いっぱなしの人もいたと思いますし。そんな中、ちゃんとドラムを叩いて生活してきたっていうのは、それだけで強いと思います。
――ヒロインとの離別を経験しつつ、再会の希望を心に抱きながら一生懸命生きている様子、河村さんのお芝居ですごく感じました。
河村眞人:ありがとうございます。音響監督の荻原さんと話したんですけど、いわば今で言ったらPTSDみたいな状態じゃないですか。そういう状態の明君ですからね。
実に人間らしいっていうのが彼の魅力かもしれないですね。いわゆるスパダリじゃない、もろい部分と、ちゃんと崩れなかった、言うて芯ある部分とっていうのが。
▼壊れた日本の空気感を表現する「間」の工夫
――難しそうと感じられたのは戦後の時代背景でしょうか?
河村眞人:はい、その時代を生きていないので、今とは価値観が違うと思うんですよね。男女間にももっと差があった時代でしょうし、じゃあこの時代の男性ってどういう風に女性と接するのか、とか。
会話のテンポ感も、現代よりはローテンポなんじゃないかなと思って、最初のシーンはポツっと喋って、間を置いて、ポツっと喋って間を置いて、みたいなテンポにしています。それが戦後日本のテンポ感に合っているかどうかはわからないですけど、現代と同じではないんだろうなと。そういう部分が、とても難しそうだなとは思いましたね。
――明を「間」で表現していただいたのでしょうか。
河村眞人:意識してそうしたというよりは、台本と向き合って、勝手にそうしたくなったみたいなイメージですね。
――本編から特典まで演じきっていただきました!
河村眞人:ありがとうございます。役者冥利。
――逆に、演じやすかった側面があれば教えてください。
河村眞人:演じやすかったかって言われると、前述の通り、難しいばっかりでしたね。
ただ、本人があの状態なので、あんまり駆け引きをする余裕がなかったじゃないですか。
――ずっと明がヒロインに縋っていました。
河村眞人:いっぱいいっぱいな明君なので。だから、このセリフの裏には、実は別の意図がありますっていうよりは、セリフの通りではありましたよね。演じやすかったって言うほどではないんですけど、強いて言うとすればそういう素直な部分でしょうか。
愛してるって言いながらぶち殺してやると考えているみたいなものはなかったので。
――はい、明は全てを口にしてしまっていましたね。
河村眞人:本当に本人に余裕がないんです。
ある意味で素直でしたからね。絞り出せばそこが演じやすかったでしょうか。
――今回の収録で特に印象に残ったシーンや台詞があれば教えてください。
河村眞人:そもそも世界観が印象的ではありますけど、特典も含めて全てを聞いた上で、すごく印象に残るセリフっていうのがありますね。
――どのセリフでしょう?
河村眞人:「愛してたわけじゃない」。
――あのシーンは聞き手としても本当に悲しく感じました。
河村眞人:極限状態を経験して、しっちゃかめっちゃかな状態だったので、あのセリフが全てなのかというと、そうではない部分はあると思いますけどね。
しかも、愛してたわけじゃないって、今そう思って喋ってるというよりも、過去を振り返って喋ってるところだから、質問が戻っちゃうんですけど、また難しいところでしたね。
――しかも、エッチの直後だったのに(笑)普通そこでは言わない。
河村眞人:結構ガツンと殴ってくるので、「ええっ?」っていう。現代だったらノンデリって言われてますからね(笑)。
それぐらいいっぱいいっぱいですから、彼は。
――〈共犯の夜〉を再現したくてしょうがないわけですもんね。リスナーにとっての聞きどころもそこでしょうか。
河村眞人:「俺は、俺だけは」とか「俺は、俺たちは」って重ねていくセリフだったり、それこそ古典みたいな長ゼリフがとても多いんですよね。その古典っぽい作品ならではの雰囲気を味わっていただくっていうのが、またこの作品の聞きどころなんじゃないかなと思います。
▼「役であるために、ト書きを消す」──現場とシナリオの舞台裏
――繰り返しになってしまいそうですが、明を演じるにあたって、心がけた点や難しかった点はありますか?
河村眞人:なんなら全てが難しかったですね。どうしても時代的に、現代劇の日常作品よりも分かりにくいものが描かれているから、状況説明とか動きの説明も台本上に増えてくるじゃないですか。
――確かに今回、シナリオのト書きが非常に多かったですね。
河村眞人:そうすると、セリフ内にもト書きが増えるじゃないですか。
セリフを読んで言葉を発するのは明君なんですけど、ト書きを読んで理解するのは河村自身なんですよ。
だからト書きが目に入るたびに気持ちが河村に戻っちゃうというか、明君の意識が切れちゃう。それがまたキス・耳とか、例えば、電話越しとか、パッと見て理解できちゃうぐらいのト書きだったらまだ大丈夫なんですけど、難しいシーンになると、台本上では1行2行全部ト書きだったりするんですよね。
――集中してト書きを頭に残らせながら次に、次に進むみたいな感じだったんでしょうか。
河村眞人:ちょっと見ていただきたいです。
――拝見します。
河村眞人:ト書きをこれくらい消しちゃいます。なので、青のボールペンがめちゃめちゃ減るみたいな。
今大事なのは、ディープキスとか、上へキスしながら上がってくる。だけ目にいれたいみたいな感じで消しちゃうんですよね。大事なところだけ見る。
――こんなに消してしまうんですね。ト書きを消してもそのト書きのお芝居されてましたね。
河村眞人:僕に限っていえば、必要最低限のト書きがいいですね。気持ちが動いたらセリフ喋るようにしますからみたいな。
――なるほど……。
河村眞人:僕は、書いてあるとやっぱその気持ちが河村に戻っちゃうから、役であるために消すっていう感じですね。
ト書きが目に入った時に、河村がト書きを理解するっていう気持ちになって明としての意識が切れちゃうんですよ。
――役に集中するためだったんですね。
河村眞人:意識を切れさせたくなくて。僕はシチュエーション作品って、いろんなジャンルの中でも一番その心の機微の流れとかセリフの連続性、継続性ってすごく大事なものだと思うんですよ。
――感情の深掘りをしていきますもんね。
河村眞人:動きもあるから、途切れさせたくないんですよね。だからト書きを理解しなきゃいけないんですけど、ト書きを理解したセリフを喋りましただと、その継続性、連続性が絶対途切れてしまうので、いかに途切れさせないように集中力を保つかっていう部分がやっぱり日常系の作品やるよりずっと難しかったですね。
――一般的なシチュエーション作品と違って、明は心情吐露が多く、ヒロインへの思いというより彼の心の動きを追わないといけない。そこを表現いただくのは難しかったと思いますが、自然にやっていただいてました。
河村眞人:本当ですか(笑)ありがとうございます。
「キャバレーと角砂糖」は現代劇っていうよりも古典みたいな長ゼリフが多かったので、感情だけでは芝居できない部分も多くて。そういうところは、本当に難しかったですね。
▼再現じゃなく、「今」を生きる芝居を
――もしご自身が音楽や芸能活動を通じて明のような一度きりの陶酔を味わったとしたら、その記憶をどんな風に抱えていきますか?
河村眞人:それこそ明君とヒロインのセッションのように、音が重なり合う気持ちの良さっていうのは、僕も役者として味わったことがあって。
でも、僕らの場合、ありがたいことに平和な世の中でのことなので。もう一度あれを味わいたいっていう気持ちはもちろんあるんですけど普通に良い思い出、良い記憶として大事に持っていく形になると思います。
――頻繁にあるんでしょうか。
河村眞人:再現度はそこまでないかもしれませんね。本当に「うわあ、今通じ合ったよね」みたいな気持ちよさには程度がありますね。陶酔までいくと、そんな頻繁にあるものでもないかな。
彼らみたいにその記憶をなぞろうとしてしまうと、多分芝居は失敗するから。
――明のように、そこまでいけないと「ダメだった」になっちゃいますもんね。
河村眞人:その時とは脚本も違うし、役も違うんだから、なぞろうとしちゃダメだよねっていう。そこに陶酔しすぎることなく、「またあれを目指して」っていう前向きな気持ちで記憶を抱えていきたいですね。
――最後に、『キャバレーと角砂糖』の発売を楽しみにしている皆さまへ、メッセージをお願いいたします!
河村眞人:皆さんが『キャバレーと角砂糖』シリーズを応援してくださっているおかげで、僕も新キャラクターとして出演することができて、明君と出会えました。感謝感謝です。引き続き応援していただけたら、また新キャラであったり、続きが出たり、もしかしたら第2シーズン、第3シーズンなんていう展開もあるかもしれません。
他にはない雰囲気の作品になっているので、シリーズの他のキャラ達と合わせて、ぜひ鳴瀬明君の巻も聞いて、この世界観にずぶずぶ浸って、目一杯楽しんでいただけたら嬉しいです。
スペシャル小説
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胸の音楽が鳴り止まない / 尾田進
「いらっしゃいませ」
背筋を伸ばし、斜め四十五度の角度でお辞儀をする。
軽く口角を持ち上げ、尾田進は男とにこやかに視線を交わした。
進の父が切り盛りする宝飾店の在庫品は接収されたばかり。一般の売買も禁止された。今後調達できる真珠や高価な工芸品は全てGHQに納入するよう命じられている。だが、終戦前に庭に埋めたり各地に分散して隠したりした本当に価値ある真珠やダイヤモンドは残っていた。将校たちもそれを承知だからこそ、こうしてわざわざ進の自宅を訪れては非公式の買い物を楽しむ。
戦場から帰還したばかりの進は、日々スーツ姿で応対していた。
「本日は何をお求めですか?」
「この前言っていたダイヤの指輪は、まだあるかな?」
「ええ、ございますよ。こちらです」
進は白手袋をはめ、背後の金庫から指輪を出してみせる。
宝石が照明を反射して、非現実的な輝きを放った。
進は時々考える。自分は少し前まで、戦場でいつ命を落とすかという状態だったのに。
実際、多くの仲間たちが苦しい戦いの中命を落とした。
それなのに進は生きて戻って、高級品を掘り返しては敵に売っている。その生にどんな意味があるのか……。
わからない。生きている実感がなかった。
その夜、進は家の離れの押し入れから、サックスケースを取り出した。
昔から音楽が好きで、戦争へ行く前は親しい友達とバンドを組んだりしていた。
プロを夢見たこともあったけど……。戦争が全部をダメにした。
(俺は、何がしたいんだろうな……)
その夜、進の暮らす離れからは、サックスの音が鳴り止まなかった。
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進駐軍クラブで演奏するバンドメンバーを募集している。そう聞いた時には興味を引かれたけれど、自分には店の仕事があるしとあきらめていた。
朝までサックスを吹いて、ふと募集の件を思い出した。
それで進は衝動的に、サックスケースを抱えて家を出た。
はたして駅前には、進駐軍のトラックが数台並んでいた。周囲には楽器を抱えた連中も大勢いる。
「バンドメンバーはまだ募集してるのかな?」
トランペットを抱き駅舎の壁に寄りかかっている若者に聞くと、彼は進のサックスケースに目をやった。
「サックスは足りてないはずだ。きっと仕事にありつける」
「本当か?」
望み薄だと思っていたが、来てよかった。
それからしばらく。駅前に集まっている者たちの中から即席のバンドが組まれ、進駐軍に派遣されることになった。きちんと日当も出るらしい。
「はじめまして、だよな?」
出発するトラックへ乗り込んだ進に、少し年上の男が声をかけてきた。
「ああ、初めて来た。尾田進だ」
「尾田くんか。俺はドラム担当で……」
「僕はピアノ! サックスと合わせられるなんてうれしいな」
トラックの荷台に揺られながら、皆が口々に名乗っていく。
即席のバンドとあって、全員が知らない者同士だった。
「それで、今日は何をやる?」
「ジャンルは?」
「そうだな。スイング・ジャズで、できる曲は?」
それぞれが弾ける曲を挙げてゆき、その日の曲目が決まった。
トラックが進駐軍クラブに到着すると、すぐにステージに上がらされる。
一度も合わせていない、一発本番だ。ドラムのリズムに耳を澄ましながら、進は慎重に音を重ねていった。
進もサックスの腕には自信があったが、プロとしての演奏は今回が初めてだった。リードを震わせる息はこわばり、キーに置く指は緊張に汗ばむ。
それでも、二曲、三曲と続けるうちに、目の前に広がる景色が変わっていった。
楽しい。最高に楽しかった! 仲間と息を合わせ、音楽を奏でることがこんなにも心躍ることだったとは。
やっぱり音楽だ、俺の人生を明るく輝かせるのは音楽だけなんだ――。吹くたびその思いが強くなる。
ステージを終えた頃には、戦争も、商売人の息子としての自分もすでに過去のものになっていた。
「Good job! You're a great saxophone player!」
ステージからバックヤードへ引っ込むと、進駐軍のスタッフが瓶詰めの飲み物を差し入れてくれる。
「サンキュー、気に入ってくれたならうれしいよ」
進は興奮冷めやらぬ中、渡された瓶を掲げてみせた。
瓶からはシュワシュワと音がする。
酒かと思って口をつけると、クセのある味と強い炭酸が鼻に抜けた。
「ゴホゴホッ! なんだこれは!」
進は咳き込み周囲を見回す。
「ははは! コーラだよ、知らないのか」
ドラムの彼が同じものを飲みながら、進の肩にひじを置いた。
「アメリカの酒? 結構キツイな」
「酒じゃない。子どもも飲む飲み物だ」
「本当に!?」
進の反応に、他のバンドメンバーたちからも笑いが漏れる。
ドラムの彼が言った。
「みんな初めはお前みたいな顔をするんだ。でもすぐに飲み慣れる」
「そうなのか……」
半信半疑のままもう一度口に含むと、ピリリとした炭酸と甘みが心地よくのどを刺激した。
「確かに美味い」
「だろ? これがアメリカだ」
笑ってグラスをぶつけ合った。
「よーし、このまま飲みに行くぞ!」
それから進たちは、進駐軍キャンプからほど近いバーで乾杯した。
話題は音楽のこと、バンドのこと。それから杯を重ねるにつれ、どこの戦場へ行ったとか、故郷のことなどに話は飛び火した。
「尾田くんはどこから? 訛りはないみたいだが……」
話を振られ、進はあるがままに話す。
「こっちの生まれだ。復員してからは、実家の事業を手伝ってる」
「どんな商売?」
「あー、まあちょっと込み入った仕事だ。商売は上々のようだけど別段誇れる仕事でもない」
なんとなく濁して答える進に、仲間のひとりが身を乗り出す。
「なになに? 尾田くんは金持ちのおぼっちゃんなのか!?」
それからは皆にぼっちゃん、ぼっちゃんとからかわれた。
「ぼっちゃんはやめてくれよ、子どもみたいだ」
「だったら若旦那か?」
「いや、まだ事業を継いだわけじゃないしな」
そう言って、進はふと考え込む。
小さい頃から、ゆくゆくは家業を継ぐものだと思っていた。周囲がそう扱ったし、長男として、親から当たり前に期待されているのもわかっていた。
でも……。
戦争から戻って、今日初めて生きていることを実感した。店ではけっして味わえない興奮と感動を、ステージで味わってしまったのだ。
「継がないのか?」
そんな仲間の問いに、進は答える。
「やっぱり音楽がいい。俺には音楽がすべてだ、今日思い知ったよ」
テーブルが一瞬静かになり、ジュークボックスのミュージックが近くに聴こえた。
それから隣のやつが肩を叩く。
「やろうよ、みんなで音楽を」
「そうだな、やろう、またこのメンバーで!」
他のメンバーも口々に言った。
「ああ、ありがとう……。よぉし、やるぞ俺は!」
進は椅子から立ち上がり、拳を振り上げる。
みんなも進の真似をした。
それからひとりがほろ酔い加減で言う。
「機会があったら、日本人向けのキャバレーでもやってみたいな。たまにバンドの募集があるんだ」
「日本人向けか……」
進としては、音楽をやれるならどこでもよかった。
他のひとりが声を潜めて言う。
「キャバレーっていえば、〈角砂糖〉の話は知ってるか?」
「〈角砂糖〉?」
「界隈で流行ってるらしい、新しいクスリだ」
「へえ……」
その時進はとくに気にとめなかった。
けれどもその〈角砂糖〉が以前、戦場で小耳に挟んだドラッグだということを、後に進は知ることになるのだった――。
それからしばらく。進は家業より、音楽活動に精を出すようになっていた。
その日も進駐軍クラブへ行くべく、駅前からトラックの荷台に乗り込む。
と、若い女性が同じトラックに乗り込むのに、もたついているのに気づいた。
「お嬢さん、手を貸すよ」
手を取り荷台へ引き上げる。彼女は別のバンドのメンバーなのか、初めて見る顔だった。
「ありがとうございます」
「ん、どういたしまして」
はにかむ笑顔が印象的だ。年は少し年下か。
進は興味を引かれつつ、彼女と並んで座った。
「あなたも進駐軍クラブでバンドを?」
女性は親しげに話しかけてくる。
「……ん? ああ、俺はサックス。君は……」
おそらくダンサーか歌い手だろう。
「ああ待って。当ててみせる」
答えようとするのを押しとどめ、進は彼女を観察した。
彼女は期待のまなざしで、進が当ててくるのを待っている。
「んー、そうだなあ……。歌手! だろ?」
「ふふっ、当たりです」
なぜか笑われてしまった。
進もつられて笑う。
「わざとらしかった? 楽器持ってないもんな。だから歌手か、ダンサーしかない」
「ですよね」
「進駐軍クラブのキャバレーへは? もう何度も?」
「はい、何度か」
「俺も。何回か行ってる」
そこで車が走り出し、ふたりは慌てて足を踏ん張った。
軍事用のトラックは大きいだけに、よく揺れる。
「……っと、大丈夫?」
「はい、無事です。びっくりしましたけど」
彼女が荷台から転げ落ちなかったことにほっとして、進は煙草に火をつけた。
「君の声、いいよな。なんだか耳に残る。きっといい歌を歌うんだろうなあ」
何気なくそんなことを口にすると、彼女は戸惑いの表情で進を見つめた。
「え……。ありがとうございます……。でも、そんなこと言われたの初めてです」
どうもお世辞だと思われたらしい。
「ははっ、お世辞じゃないさ! クセになるような声。ああ、待って、これ口説いてるみたいだ」
彼女は口元を隠しクスクスと笑っていた。笑顔に胸を射貫かれる。
「あれ、笑顔も最高」
「え……?」
本音が漏れてしまった。
「どうしよう。ますます口説いてるみたいになった」
自分でも浮かれすぎだと思いながら、進は続ける。
「うん、じゃあついでにこのまま口説こう。今日、一緒にステージに立たない?」
彼女は驚いたように目をみはった。
「君の歌でサックスを吹いてみたい。君は今日何を歌う予定だった?」
そんな進の問いに、何曲かの曲名が返される。
「OK! それならちょうど楽譜を持ってる。ほら! な?」
歌手の彼女はそれを見て、うなずいてみせる。
「交渉成立?」
「はい、私でよければ」
「よかった! 僕は尾田進。君は?」
「私は――」
美しい声が美しい名前を告げた。
美しく、心惹かれる人との出会い……。
この出会いが、進の運命を大きく変えることとなる――。
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不死鳥は踊る / ジョン・カワグチ
キレのあるドラムに力強いトランペット。それらの奏でる西洋のリズムに花を添えるのは、日本娘のコケティッシュなダンスだった。
1950年、東京――。
未だ敗戦の痛手の中にあるこの国で、不死鳥フェニックスが翼を広げようとしていた。
今キャバレーのステージで踊っている彼女のことだ。
進駐軍の通訳ジョン・カワグチは彼女を見ながら、フェニックスの日本語訳は不死鳥だったと頭の中で考えた。
彼女のダンスは羽ばたく鳥のように美しく、情熱的だ。
敗戦国である日本にこんな力があったとは、と驚かされ、励まされる思いだった。
ジョンはカワグチという姓からもわかるように、日本人の血が流れている。父親が日本人の、日系二世だ。
「へえ、あの女が気に入ったのか? ジョン、お前にぴったりだ」
ジョンをここへ連れてきた、進駐軍の同僚が肩に手を置きながら耳打ちした。
その言葉にはからかいのニュアンスが含まれている。彼は普段から日系人であるジョンのことをからかって「イエロー」などと呼ぶことがあった。
元敵国である日本へあまりいい感情を抱いていない米国人は多く、ジョンたち日系人への風当たりも強い。だからジョンも、いろいろ言われるのには慣れていた。
それを許容しているかといえば、けっしてそうではないけれど……。
ともかく彼は、ジョンと彼女で“イエロー”同士、お似合いだと言いたいらしい。
「なあ、あの女を引っかけたら、夜がどんなだったか教えてくれよ。きっと今ステージでやってたみたいにいやらしく腰を振るぞ?」
「悪いがセックスには興味ない」
ジョンは彼の手を払いのけた。
「ウソつくな。あの女のこと、やけに熱い目で見てたくせに」
「そういう目で見てたんじゃない」
くだらない話をするうちに、曲が終わって彼女は舞台袖へ消えてしまった。
ステージでのショーはさっきの曲で、一旦終わってしまったらしい。
フロアに照明が灯り、スローテンポの曲が流れだす。ここからはチークタイムのようだ。
「ねえ、踊りません?」
店のホステスがジョンや同僚に声をかける。
同僚は別のホステスに手を引かれて行ってしまったが、ジョンはその気になれなかった。ホステスに断りを入れ、グラスを手に壁際へ移動する。
ここ〈New Tokyo〉は占領軍御用達のキャバレーで、客のほとんどは占領軍の兵士たちだ。
兵士と日本女性が対になって踊る姿を、ジョンはウィスキーを飲みながらぼんやりと眺めた。
その時さっきのダンサーが、ジョンの目に映る。
不死鳥の彼女だ。彼女も誰かと手を取り合い、微笑を浮かべて踊っていた。
相手は知らない兵士だった。
彼女の艶やかな赤い唇が何か言い、微笑みの形を作った。
頬に浮かぶえくぼが作り笑いでないことを証明している。
ジョンは微笑みかけられている男をうらやましく思った。
彼女と手を取り合い、見つめ合いながら踊るのはどんな気分なのだろう。
彼女を間近に見つめ、同じ空気の中にいられたら……。
想像すると、ジョンの胸はなんともいえない甘い熱に侵された。
その時、彼女とふと目が合う――。
見つめていることに気付かれたのか。それとも目が合ったと思ったのは気のせいか。
遠目に見る彼女の唇は、相変わらず微笑みの形を作っていた。
そこでジョンは目の端に、別のものをとらえる。
日本人の男と米兵が連れ立って、フロアを出ていくところだった。
ジョンはふたりの仕草に特別なものを感じ取り、彼らを追いかける。
ふたりは廊下の暗がりで話していた。
「あのクスリ、また女に持たせてくれるよう伝えてくれ。今夜、前と同じ場所に」
日本人の方がうなずき、廊下の奥へ消えていく。
おそらく〈角砂糖〉と呼ばれる違法ドラッグの話だ。ジョンは上層部からの密命でその〈角砂糖〉を追っていた。
流通ルートをつかむチャンスかもしれない。
「〈角砂糖〉? よかったらわけてくれないかな」
ジョンは何気ないふりをして、米兵に声をかけた。軍服の徽章を見るに、階級はジョンと同等だ。
彼は疑いのまなざしをジョンに向ける。
「なんの話だ? 〈角砂糖〉なんて知らないな」
「みんなそう言う。上にバレるとことだから……」
ジョンは声を落とし、周囲を警戒してみせる。
「誰にも言わない。一度試してみたいだけなんだ」
すると米兵は苦笑いを浮かべて言った。
「そんなにあれが欲しいなら、この店に通い詰めてみるといい。アンタに怪しい動きがなければ、そのうち売人の方から声をかけてくると思うぞ」
やはりここ〈New Tokyo〉で〈角砂糖〉の取り引きは行われているらしい。
ジョンの見立てが当たった――。
*
ししおどしの音が鳴っていた。
あれから数日。ジョンは上官への伝言を携え、東京都内の老舗料亭に来ていた。
よく磨かれたヒノキの廊下を踏み、ジョンは上官のいる和室へ急ぐ。
こんな場所に早足は似つかわしくない。しかし急ぎの用件だった。
「お食事中失礼いたします、ホワイト大佐」
ジョンはその場にひざを突き、返事を聞くのもそこそこにふすまを引く。
「ワシントンより入電、至急お話したいことがあるとのことです。車は待たせてありますので、総司令部にお戻りを」
大佐は大きく息をつき、肩をすくめた。
その仕草はジョンに見せるためのものではない。向かいの席に女性がいた。
(彼女は――)
「慌ただしいな。まだ料理に手をつけてもいないのに……」
大佐はぼやきながらも腰を上げる。
「行ってくる。ジョン、君は私が戻るまでの間、私の可愛い天使が退屈しないよう話し相手になってやってくれ」
「――は。承知いたしました」
離れていく上官の足音を聞きながら、ジョンは彼女と顔を見合わせた。
そして気がつく。
「! 貴女は――」
ジョンがキャバレーで見惚れた“不死鳥”だった。
ホワイト大佐に日本人の愛人がいるのは知っていたが、まさかそれが彼女だったとは……。
「……あのう?」
彼女はジョンの反応を見て不可解そうにする。
「いや、失礼。キャバレーで貴女のダンスに見惚れたことがあったので、驚いてしまいました。大佐の『可愛い天使』が貴女だったとは……」
「〈New Tokyo〉にいらしてたんですね……」
彼女はまだ戸惑っている様子だ。
「まあとにかく、大佐がおられた上座にどうぞ。私は下座で結構です」
「そんな、軍人さんを下座になんて座らせられません……」
「そうですか?」
ジョンの口元からは微笑みが漏れる。
上官の愛人を、こちらが無下に扱えないことはわかっているだろうに。もともと奥ゆかしい女性なんだろう。
ステージでは大胆に踊るのに、やっぱり日本女性だ。
「では――」
ジョンは上座に座り、お銚子に手を伸ばした。
「ホワイト大佐が戻るまで、しばらくの間お相手いたします。さ、お注ぎしましょう」
「恐れ入ります……。貴方も飲まれますよね?」
彼女が上座に伏せられていた杯を表に返そうとする。
「いえ、私は結構。せっかくですが任務中ですので」
言いながら彼女の手を押しとどめようとしたところで、手と手がかするようにしてぶつかった。
「すみません、あのぅ……」
「ああ、申し遅れました。私はジョン・カワグチ。参謀第二部で翻訳や通訳を担当しています」
「カワグチさん……。それで日本語がお上手なんですね」
少し話してリラックスしたんだろう。彼女が香るように微笑んだ。
それからまた少し、ふたりは日本語や日本文化のことを話す。
その中で、わずかながら彼女のことがわかってくる。
彼女が話す英語は終戦後、必死になってした勉強のたまものらしい。
それで米国人の大佐とコミュニケーションが取れているわけだから、たいしたものだ。
一方のジョンも日系人とはいえ、幼い頃から自然に日本語に親しんでいたわけではなかった。日米の関係が悪い中、家族も日本との繋がりを隠すようにして生きていたからだ。
「私も同じでした。生まれ育ったサンフランシスコのような西海岸の町では、日本語を話すことすらはばかられ、日系人は――」
つい暗い話になってしまった。ジョンは話題を変える。
「そうだ、貴女のショーも素晴らしいですね。特に『シング、シング、シング』での力強いステップは、貴女が一番、音楽とダンスを楽しんでいるように見えました」
「そんな、お恥ずかしい」
照れ笑いなのか、彼女は小さく微笑みながら首を横に振る。
「謙遜が多いのは日本人の悪い癖です。素晴らしいものは、素晴らしい。戦争が終わって、まだたった5年。その短期間であんなに素晴らしいダンスを踊れるようになったのでしょう? 英語にしても、凄まじい努力のたまものだと思います」
その言葉は掛け値なしの、ジョンの本心だった。
彼女には目をみはるような才能がある。そしてその才能を開花させたのは、彼女自身の血のにじむような努力だ。ジョンにはそれがわかった。
ところが彼女は、困ったように笑って意外なことを言う。
「ダンスを褒められたのは初めてです」
「! そうですか……、今まで誰も褒めてくれなかったとは……」
「日本人の踊りは見るに堪えないと……、そうおっしゃる方もいました」
「…………」
ジョンは言葉に詰まった。
確かに米国人の中には、日本人の音楽やダンスを認めない者も多い。
けれどもそれは偏見に曇った目で見ているからだ。見る目があったら、ダンサーが米国人だろうが日本人だろうが、関係なく評価できるはずだからだ。
ジョンはゆっくりと首を横に振り、彼女の瞳をのぞき込んだ。
「今に気付きますよ。ビッグバンドを背に、スウィングする貴女がどれだけ素晴らしいか――」
ジョンの脳裏で、今日も彼女は華麗に翼を広げていた。
このひとを知りたい。そんな思いが膨らむ。
ジョンが彼女の真実を知るのは、もう少し先のことになるのだが……。
-
キャバレーの光と闇に包まれて / 不破学
1958年、ある地方都市。キャバレーのネオンが輝く通りで、男が女の腕を引いていた。
「なあ、少しくらいいいだろう!? 俺がどれだけ通い詰めたと思ってるんだ」
腕を引かれた女の体が傾く。
「駄目よ。お店の外では会えないことになってるの」
「そう言わずにさあ。秘密にすればバレないだろ?」
「お願い。もう戻らなきゃ、支配人に叱られちゃう」
女の潤んだ瞳にネオンの光が反射した。
そこへ黒塗りのクラウンが滑り込んでくる。
運転手がキャバレーの正面で車を止め、後部座席のドアを開けた。
背の高い男が車から悠々と下りてきて、キャバレーの建物を見上げる。
スリーピースのスーツになでつけた黒髪がよく似合っていた。年の頃は、不惑は越えない頃だろうか。
彼の名を不破学といった。
キャバレーの前で腕を引っ張り合っていた男女は、呆気に取られたように学を見つめる。周囲の客たちとは、まとうオーラが違っていた。
と、学がキッと男を見据えた。
彼は大股で男に歩み寄ると、女の腕をつかんでいた男の手首を持ち上げる。
「店の売り物に手を触れるな」
「――は?」
「消されたいのか」
「あんた一体――」
そこへ後ろから声が聞こえてきた。
「不破社長! お待ちしておりました」
キャバレーの建物からぞろぞろと従業員たちが出てきて、緊迫した表情で店の入り口に並ぶ。
「社長……ってことはあんたあの、“キャバレー王”か!」
男は学を見上げて息を呑むと、そそくさと逃げていった。
全国各地に次々とキャバレーをオープンさせている“キャバレー王”。夜の世界でその名を知らぬ者はいなかった。
逃げる男には目もくれず、学は女の顎を持ち上げる。
「お前……」
厚化粧の下の顔には幼さが残っていた。
(似ているが、別人か……)
学は小さなため息とともに手を離す。
「もう行け」
「は……、はい!」
女と入れ違いで店の支配人が飛んできた。
「うちのホステスが何か失礼を……!?」
「いや、なんでもない」
行方知れずになっている、学の妹に似ていた。ただそれだけだった。
彼女は今頃、どうしているのか……。
(あいつが幸せでなければ、俺の人生に意味はない――)
キャバレーの光と闇に包まれて、妹の幻影が、学の胸に幾重にも影を落としていた。
*
学と妹との、運命の交わりの発端は二十数年前、戦前にまで遡る。
その時学は11歳。ビアホールの女給をしていた母親と、母ひとり子ひとり、アパートの一室で暮らしていた。
ところがその母親が、数日戻っていなかった。
学が学校へ行っている間に荷物がなくなっていた。母は男と逃げたのだ。
相手は最近、ここへ顔を出すようになっていた男だろう。男はビアホールの客だった。
しかし恨む気持ちは起こらなかった。学にはもともと父親がいない。
母親にとって自分がお荷物なのはわかっていた。
いつかこうなるだろうということも、薄々勘づいていた。
学は生まれつき頭がよく、そして冷静だった。
さて生きるためにはどうすべきなのか。一人残されたアパートで、じっと待っていても飢えて死ぬだけだ。
学がそう考え立ち上がりかけた時、玄関のドアがノックされ、外側から開かれた。
母親が思い直して帰ってきたのかと思ったが、入って来たのは知らない中年男だった。
薄暗い部屋で鉢合わせし、学と男はお互いに息を呑む。
「お前ひとりなのか? そういえば、息子がいるって言ってたな……」
「母さんは何日も帰ってない。おじさんは?」
「不破という名前に聞き覚えは? お前の母さんの雇い主だ」
雇い主ということは、ビアホールの社長か経営者か。なるほど、不破は身なりのいい男だった。
彼は部屋の奥へ目をやりながら言う。
「お前の母さんがここ数日無断欠勤していて、おかしいと思って来てみたんだが……。もぬけの殻みたいだな。前払いしていた分の給料を、持ち逃げされたと見える」
前払い……。そんなことを言われても、11歳の学に返す金があるはずもなかった。
「さてどうしたものかね」
不破はテーブルに広げられていた、学のノートを手に取る。
「坊主、小学生か」
「尋常小学校の5年」
「勉強はできるのか」
学は肩をすくめた。
「計算は得意だから、商家にでも働き口がないかと思ってる……」
学の覚悟を聞き、不破が困り顔で笑う。
「働くつもりなのか。それなら坊主、うちへ来な?」
「俺が、おじさんのところに?」
「ああ。お前の母さんに貸した分、こっちとしても返してもらわなきゃ困るんだ」
学にとってそれは天の助けだった。こき使われるかもしれないが、ここにいて飢えてしまうよりずっといい。なんとかして生きられる。
「わかった。なんでもする。俺は何をすればいい?」
「そうだな。まずはうちに住まわせてやるから、中学校までは行ってくれ。借金を返すのは、そのあとでいい。ただし三倍にして返すこと」
不破は学の髪をわしわしと撫でた。
キャバレーの経営者・不破には子どもがいなかった。
そして学の才覚を認めたんだろう。しばらくして学を正式な養子として迎えた。
それから数年、不破家に待望の子どもが生まれた。
「おじさん、産まれたのか!」
旧制中学校から帰り、産声を聞いた学は不破家の居間へ飛び込む。
不破の妻が赤ん坊を連れ、産院から戻っていた。
「いい加減に“父さん”と呼べ。ほら、お前の妹だ」
不破が笑って、白いおくるみに包まれた赤ん坊を差し出してきた。
学は戸惑う。
「いいのか? 俺が抱いて……」
不破夫婦にとって、待望の赤ん坊だ。しかも生まれたてほやほやの。
他人に触れさせたくない宝物に違いない。
それでも義父は、赤ん坊を学に抱かせようとした。
「抱いてやってくれ。お前は兄さんになったんだ」
「…………」
学は慎重に手を伸ばし、ミルクの匂いのする赤ん坊を抱き取る。
その瞬間、胸に温かなものが生まれた。
(俺の妹……)
妹はやわらかくて小さくて、今にも壊れてしまいそうだ。
どんなことがあってもこの小さな命を守ろうと、学は心に決めた――。
*
時は飛んで1945年――。
終戦後すぐに復員した学は、不破の養子として、経営に関わるようになっていた。
その頃不破はビアホールを畳み、キャバレーに経営の軸足を移していた。
学もそのうちの数店舗を任されていたが――。
その夜、学は義父からの呼び出しを受け、不破邸に戻っていた。
「父さん、話って――」
「そこへ座りなさい」
夜の書斎で向かいに座らされた。
義父・不破のただならぬ気配に、学はそっと片眉を持ち上げる。
彼は着物の袖に腕を入れ、難しい顔をしていた。
それからおもむろに切り出す。
「悪い噂を耳にした」
「噂? 一体なんでしょう」
「お前に任せている〈New Tokyo〉のことだ」
〈New Tokyo〉は系列の他店舗とは違い、GHQ専用のキャバレーとして運営されている店舗だ。
「あの店では最近〈角砂糖〉っていうドラッグが人気らしいな?」
不破はじっと学を見つめる。学も目を逸らさなかった。
「さあ。客か店の若いやつが、勝手に持ち込んだのかもしれません。目くじらを立てる程のことでもないと思いますが」
学は小さく笑ってみせた。
実際、店に〈角砂糖〉を持ち込んだのは学自身だった。ただ、義父の耳に入るほど、噂が広まっているようでは危ない。やり方を変えなければ……学はそう考えた。
「ご心配おかけしてすみません。店にドラッグを持ち込ませないよう、すぐに手配します」
「待ってくれ!」
立ち上がりかけた学を、義父が手で制した。
「……父さん?」
彼の必死なまなざしに、学は嫌な予感を覚える。
「その〈角砂糖〉、うちの系列のキャバレーで、大きく取り扱いたいと思っている」
「何を言い出すんですか!」
「お前も知っての通り、店の売り上げが思わしくない。経営の柱になるものが必要だ」
「だからって……。ドラッグを手広く扱うのは危険です!」
義父は声を絞り出すようにして言った。
「……学、俺を助けてくれ……」
学は目まいを覚える。
恩義のある不破の申し出を、そう簡単には断れない。彼の経営するキャバレーだって見捨てられない。
(俺は……)
悩んだ末、学は危険を冒す決断をする。
「あれを扱うなら、それなりの準備と覚悟が必要です。軍ならともかく一般に売るなら、ヤクザが商売敵になる……」
「ああ……。ありがとう、学!」
「やめてください、父さん。水くさい」
ふたりはお互いの手を取った。
それが最悪の結末への序章だとも知らずに――。
それから数年。その日は妹の、12歳の誕生日だった。
(こんな日に仕事だなんて、ツキに恵まれないもんだな……)
学は心の中で自分を笑いながら、夕刻の道を急いでいた。
多忙な中、誕生日の妹と食卓を囲むのはあきらめたが、せめてプレゼントくらいは渡してやりたい。
道を曲がったところで見覚えのある制服が目に飛び込んでくる。
はたしてそれは、学が今思い描いていた妹本人だった。
「おう、今帰りか」
「ガク兄ちゃん」
「随分遅かったんだな。居残りか?」
冗談めかして聞くと、妹は首を横にぶんぶん振ってみせる。
「違うよ。図書館で勉強してて、気づいたら夕方で」
「フフ、お前らしいな。誕生日だってのに」
ちょうどよかったと、学は胸ポケットに手を入れた。
「そうだ。お前にコレを……」
差し出された包みと学の顔を、妹は瞬きしながら見比べる。
「プレゼントだ。道端で悪いが、祝いの席で渡せないから」
「え……。一緒にお祝いできないの?」
妹の輝く瞳に、喜びと落胆とが入り交じった。
「仕事がちょっとな。父さん――いや、社長を煩わせるほどのことじゃないんだが、俺は行かないとまずそうでな」
妹を悲しませまいと、学はプレゼントの方へ話を逸らした。
「ま、とにかく開けてみてくれ」
妹の細く柔らかそうな指がリボンを解く。
包みから出てきたものはかっちりとした箱に収まった、外国製の万年筆だった。
「お前、大学に行って立派な科学者になりたいんだろう?
洒落た髪飾りや小物よりも、万年筆の方がいいかと思ってな」
さっきまで落胆に陰っていた妹の瞳がまたキラキラと輝きだす。
「ありがとう、大事にする……!」
「そうか。喜んでくれたなら俺も嬉しいよ」
それから学は腕時計に目を落とした。
「そろそろ帰りな。さ、屋敷まで一緒に行こう。って言ってもすぐそこだが……」
ふたりは並んで、家への道を歩きだす。
もう屋敷の門が見えていた。
門をくぐり、踏み石を踏んで玄関へ。
「……えらく静かだな」
その時学は、不吉な気配を感じ取っていた。
普段ならにぎやかな屋敷が、しんと静まりかえっている。
玄関の戸を開ける。
そしてふたりの目に飛び込んできたものは……。
こうしてふたりの、宿命の物語が幕を開けた――。
-
光り輝くスターへの夢 / 山野辺響
研ぎ澄まされたメトロノームが、頭の中で鳴る。そしてイントロ。
曲の冒頭、第一声で、相手の興味を惹きつける。
声質、音程、リズム感、それから目線に表情。曲に乗せた体の動き。
山野辺響はすべてを意識し、音楽に身を委ねた。
そこは大手音楽プロダクションの会議室。居並ぶ審査員たちは、まっすぐに響を見つめている。
感嘆のうめき、明るい表情。反応はよさそうだ。
大きな拍手が曲の終わりと重なった。
それから――。
「エントリーナンバー106番、山野辺響君」
「はい」
響は期待とともに、プロデューサーの寸評を聞く。
「声もいいし音程もバッチリ、だが……決定的なものが欠けている」
(……え?)
投げかけられた思わぬ言葉に、心臓が凍りつく。
「決定的なもの、ですか……? それは一体……」
このプロデューサーが思う、歌手にとって決定的なものとはなんなのか。それが自分には欠けているなんて……。
幼い頃から音楽を友として生きてきた、21歳の響には、簡単には受け止められない言葉だった。
「わからないかい?」
唖然とする響を前に、プロデューサーは諭すように続ける。
「人の心に響き、感動させる力だよ」
(人の心に響き、感動させる……?)
親から与えられた名前がまさにその“響”の字だっていうのに……。
響は汗に濡れた前髪を掻き上げた。
*
「ら~ら~ら~♪」
若い母親が庭に洗濯物を干しながら、鼻歌を歌っている。
これは響が子どもの頃の記憶だ。たぶん4、5歳頃だったと思う。
「母さんはお歌が好きだね」
縁側で響がつぶやくと、母ではなく、後ろの居間で新聞を読んでいた父が答えた。
「母さんはキャバレーの歌姫だったんだよ」
「歌姫って?」
「ステージで歌を歌うスターのこと。中でも母さんの歌声はとても魅力的で、みんなが母さんの魔法のような歌声に夢中になったんだ」
そう語る父の表情は、とても幸せそうで、それでいてどこか切なげにも見えた。
洗濯物を干し終えた母が、響の髪を撫でる。
「母さん、歌が好きだから響にも、響って名前をつけたのよ」
すると父が懐かしそうに言った。
「あの時、君は言っていたよね。『言葉や声は魔法のように素敵なもの、息子には人の心を響かせることのできる人になってほしい』って……」
「そうだったわね」
響が自分の名前の意味を知ったのは、この時だった。
「じゃあ僕も、母さんみたいにお歌を歌う人になるの?」
「別に歌じゃなくたっていいんだよ」
父が来て、小さな響を抱き上げる。
「たとえば言葉や行動でも、人の心を響かせることはできる。人の優しさに触れて、心が救われるみたいにね」
「ふうん?」
まだ幼い響にはその言葉を、実感を持って理解することはできなかった。
けれども母が歌を愛し、その母を父が愛していることはよくわかった。
そしてふたりが、自分を宝物のように思ってくれているということも……。
(きっと僕も母さんみたいにスターになって、みんなの前でお歌を歌う! 父さんと母さんの子どもだから)
響は幼い胸に、将来の夢を思い描いた。
あれから十数年。響はスター歌手を夢見て試行錯誤をする日々だ。
実家には戻らないと決めている。
自分の力でスターの夢をつかむまでは――。
*
全身全霊をかけて挑んだ大手プロダクションのオーディションは、あえなく不合格に終わった。
肩を落として建物を出ると、やけにまぶしい太陽が響の目に突き刺さる。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「待ってくれ!」
振り向くとそこには背の高い青年が立っている。
「君の歌、すごくよかったよ!
俺が審査員だったら間違いなく合格を出してた。それだけ伝えたくて……」
「えーと、君は……」
「君の後、エントリーナンバー107番だった海川だ」
つまり同じオーディションを受けに来ていた人らしい。そして今出てきたということは、彼も響同様不合格だったんだろう。
「ごめん、緊張していて、後ろを見る余裕なんてなかったよ」
響は笑って彼と握手を交わした。
「よかったらどこかで話さない? 情報交換しよう」
海川に誘われ、響は近くのカフェに足を運んだ。
「あそこのプロダクション、君を落としたことを後悔するんじゃないかな? 俺は結構な数のオーディションを受けてきたが、君ほどの歌を聴いたことがない。言ってみれば、そう、君は完璧だった」
海川は珈琲をかき混ぜたティースプーンを持ち上げて、熱弁を振るった。
「そう言ってもらえるのはうれしいけど……」
響は曖昧に笑ってカップを置く。
「君は僕の次の順番だったんだろう? だったら審査員の寸評も聞いてたはずだ。あの人は言ってた。僕には“人の心に響き、感動させる力”が足りないって。そんなんじゃ、スターになれやしないよ……」
同じ歌手志望の彼に褒められても、やはり響の心は晴れなかった。
「そういう君はどうなの? たくさんオーディションを受けているんだよね、手応えは?」
響の問いに、海川は乾いた笑い声をたてる。
「残念ながら鳴かず飛ばずだよ。ここいらで潮時だと思ってる。田舎の両親も、いい加減戻ってきて家業を手伝えってうるさいしね」
話を聞くに、海川は響よりいくらか年上らしかった。
(家業か……)
確かに響が家業を継げば、母に楽をさせることができるかもしれない。それを思うと心苦しかった。
だからといって、夢への挑戦をあきらめようという気持ちにもなれなかった。
光り輝くスターへの夢――。響は幼い頃からそれに魅了され、人生をかけてきたからだ。
(……僕はスターになるまであきらめない、絶対に……)
その時、手元を見つめていた響の視界に、やわらかな影がかかった。
「珈琲のお替わりはいかがですか?」
顔を上げると白いエプロンを着たウェイトレスに、にっこりと微笑まれる。
(なんて軽やかに笑うんだろう……)
響は思わず彼女を見つめた。
「……あの、珈琲のお替わりは」
「ああ、珈琲……! ええ、ぜひ。いただけますか」
少し動揺しながら、空になっていたカップを差し出す。
「この珈琲、とても美味しいですね。いつの間にかなくなってしまった」
「ありがとうございます。エチオピア産のお豆を使ってるんですよ。軽い味わいが特徴で。私も大好き」
彼女と他愛もないおしゃべりをしていると、それだけで心が和んだ。
カップに珈琲を注ぐ間だけの、短い会話だったのに。
「あのっ、ほかにオススメのメニューは? 少しお腹が空いてしまって」
隣のテーブルへ行きかけた彼女を、引き留めるようにして聞いた。
すると彼女はキラリと瞳を輝かせる。
「オススメでしたら、オムライスです! 洋食屋さんにも負けないと思いますよ」
彼女のオススメで注文したオムライスは、元気の出る味がした。
(こんなことで気持ちが救われるなんて……)
響は小さな感動を胸に、夕方のカフェを振り返る。
「あのさ、山野辺君」
一緒に店を出た海川が話しかけた。
「君は真面目そうに見えて、本当は明るい性格なんだな」
「そうかな?」
響も自分が暗い人間だとは思わなかったが、あえて明るいと言われたことに驚いた。
でもそうだ。子どもの頃はヤンチャだったし、歌うことが好きなのも、周囲を笑顔にできるからだ。
車が行き交う通りで、海川は続ける。
「ああ。お行儀のいいおぼっちゃんなんかやめちまえよ。君は君でいる方が、カリスマ性があっていい」
確かに彼の言うとおりだ。響はオーディションに受かろうとして、自分を型にはめ込みすぎていたことに気づいた。
問題の答えが出ると、次への希望が湧いてきた。
「ありがとう、次こそ頑張るよ!」
拳を作ってみせる響に、海川が聞く。
「次はどこを受けるんだ?」
「キャバレー〈New Tokyo〉のシンガーに応募しようと思ってる」
そこは母が歌い、サックス奏者だった頃の父も上がったステージということで、響にとっても思い入れが深い場所だった。
「〈New Tokyo〉って、あの〈New Tokyo〉か! あそこのステージで歌えたら、さぞかし気持ちがいいだろうな」
「本当に……」
海川に言われ、響もステージに立つ自分を思い描く。
(きっと今度こそいける! 〈New Tokyo〉が、夢へ踏み出す第一歩になるんだ!)
響はすっかり立ち直っている自分に気づいた。
それから数カ月が経った、ある日のこと――。
響はひとつの決意を胸に、すっかり行きつけになったあのカフェを訪れていた。
いつもの彼女がメニューを手に、響のいるテーブルへ近づく。
「いらっしゃいませ」
「やあ、どうも。可愛いウェイトレスさん」
彼女とも顔なじみになっていた。
「今日もいつもの珈琲でお願い。それから……あ、あと、お腹が空いたな。サンドイッチもいい?」
「はい、珈琲とサンドイッチですね」
いつもふたりはここで一言二言の雑談を交わす。
響は少しだけ声を潜めて切り出した。
「昨日は楽しめた?」
昨夜、響が歌手として歌いに行ったこの近くのレストランで、彼女が食事をしていたのだ。
「まさかレストランで君と、バッタリなんて思わなかったから驚いたよ。一緒に来てた男性はボーイフレンド? あ、フィアンセだったりして」
そんな響の問いかけに、彼女は一瞬考え込むような顔をした。
「ああ、こんな詮索をするなんて、素敵なお嬢さんに失礼だったよね」
聞き方を間違えたかと思ったが、彼女は自然な笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ、大丈夫。昨日一緒だった彼はええ、フィアンセです」
「……そう、フィアンセ……」
兄か、それでなかったら友達だと言ってくれればよかったのに。
思わず気落ちしてしまいそうな響に、彼女が優しく笑いかける。
「それよりお歌、とっても素敵でした」
「え、僕の歌!? ありがとう! 君が気に入ってくれるなんてすごくうれしいよ!」
実際、客席からの反応はよかった。
彼女もうっとりと聴いてくれていて……。響も手応えを感じていた。
(よし!)
心の中で、小さく拳を握る。
それから少し話をし、響はようやく今日の本題を切り出した。
「キャバレー〈New Tokyo〉を知ってる?」
「はい。場所は知ってます」
だったら話は早そうだ。
「そこのオーディションにね、驚くことに通過したんだよ! よければぜひ、聴きに来てくれないかな?」
突然の誘いに彼女は戸惑っているようだ。
「ずっと、ずっと夢だったんだ。大きなステージで、たくさんの観客の前で、大好きな歌を心から歌えることが……」
彼女の反応を見ながら、響は続ける。
「だからその夢の舞台を、どうしても君に、君に観てほしい」
あのオーディションの日、落ち込んでいた心を救ってくれた彼女だからこそ、見届けてほしいと響は思った。
(ああ、どうか。ノーとは言わないでくれ!)
願うと同時に、どうしてか確信もしていた。彼女はきっと来てくれる……。
こうして始まったふたりの物語は、キャバレー〈New Tokyo〉のステージへ舞台を移すことになる――。
-
紙と灰のあいだに / 城井弦
一九四四年の晩秋。
召集令状を受け取ってから三日後、城井弦は臨時検査場にいた。
教壇の上に白衣の軍医が並び、召集された男たちが上半身裸で整列している。
窓の外では風が鳴り、冬の匂いが混じっていた。
城井弦は順番を待ちながら、胸の奥がざわついていた。
一週間ほど前から微熱と咳が続いている。
ただの風邪だと思っていた。思いたかった。
「息を吸って、吐け」
冷たい聴診器が胸に当てられる。
軍医の眉間に皺が寄った。
「音が悪いな。……結核の疑いあり。出征は取り消し、即日帰郷とする」
その言葉が落ちた瞬間、空気が止まった。
隣にいた青年がわずかに目を逸らす。
「兵士になれない男」の烙印――それがどれほど重いものか、弦にもわかっていた。
「ちょっと待ってください、風邪なんです、熱はもう……」
「黙れ。次」
軍医はもう別の若者を呼んでいた。
弦は、誰に促されるでもなく外へ出た。
冷たい風が、頬を刺した。
駅の構内は、見送りの人々でごった返していた。
深川の若者たちが、軍列車に乗り込んでいる。
小旗を振る家族の間をすり抜け、弦は柱の陰に立った。
「城井、お前も必ず後から来いよな!」
同じ町内の連中が笑って叫ぶ。
弦は手を上げかけて、やめた。
「結核の疑いあり」と書かれた紙が、ポケットの中に入っていた。
弦は何も言えなかった。手を振ることすらできなかった。喉が詰まったように声が出ない。
汽車が動き出す。白い煙が空に溶ける。窓から手を振る友人たちの顔が、一つ、また一つと遠ざかっていく。
弦は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
――俺は、行けなかった。
その事実だけが、重く胸に沈んだ。安堵と、罪悪感と、恥ずかしさが入り混じる。生き残れることへの安心と、それを喜んでしまう自分への嫌悪が、胸の奥で渦を巻いていた。
*
やがて弦は工場に動員された。軍需工場で弾丸の部品を作る日々だ。
鉄粉の匂いが鼻腔に張りつき、油まみれの手で昼飯を食う。新聞には「決戦完遂」「必勝の信念」と躍っているが、駅前には負傷兵が溢れていた。
片腕を失った若者。松葉杖で引きずる足。白い包帯から滲む赤。彼らの目は虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。
弦は毎朝、彼らの横を通り過ぎる。
目を逸らす。逸らしながら、心の中で何度も謝った。申し訳ない、と。俺は無傷でここにいる、と。
「城井、手ぇ動かせ」
班長の怒声が飛ぶ。
弦は慌てて旋盤に向き直った。
機械の音。金属の擦れる音。誰も喋らない。工場の空気は重苦しく、油と鉄の匂いが充満している。窓の外では、遠くで空襲警報のサイレンが鳴り始めていた。
昼休み、弦は工場の隅で焦げ茶色のノートを開いた。
鉛筆を走らせる。文字を書くとき、手が震える。それでも書かずにはいられなかった。
『勝ち戦しか載らねぇのに、駅前は負傷兵だらけだ。誰も何も言わない。言えば罪になるから』
誰も本音を言えない。言えば罪になる。
それでも、弦は書かずにいられなかった。
書いておかないと、心が腐る気がした。
黙っていることが、一番の裏切りに思えた。嘘に加担しているような、そんな気持ちになった。
「城井、そのノートに何書いてんだ?」
同僚が覗き込もうとする。
弦は慌ててノートを閉じた。心臓が跳ねる。
「日記だよ。ただの日記」
「日記ねえ……。変なこと書いてんじゃねえだろうな」
同僚の目つきが鋭くなる。疑いの色が濃い。
「書いてないさ。工場のこととか、飯のこととか」
弦は努めて平静を装った。声が上ずらないように気をつける。
同僚は疑わしげな目で弦を見る。
「お前、徴兵免れたクセに、随分と余裕だな」
言葉の棘が胸に刺さる。
弦は何も言い返せなかった。言い返す資格がないように思えた。
同僚はそれ以上何も言わず、立ち去った。その背中が、弦を非難しているように見えた。
弦は胸を撫で下ろす。手が震えている。
ノートに書いているのは、新聞に載らない真実だった。空襲の恐怖、配給の遅れ、誰もが口にできない疑念。焼夷弾で焼かれた街の匂い。死体の匂い。
こんなもの、見つかれば非国民扱いだ。特高に連れて行かれるかもしれない。
それでも鉛筆を握る。書かなければ、この狂った現実に押し潰されてしまいそうだった。言葉だけが、正気を保つ手段だった。
夜、家に帰ると新聞が届いていた。戦況の文言ばかりが並び、空襲のことは一行もない。必要な記事の欠けた紙面だった。
弦はその上に、自分の見た景色を書き足した。鉛筆で、小さな文字で、余白に。
誰にも見せられない、自分だけの記録。いつか、いつかこれを誰かと分かち合える日が来るだろうか。
*
冬の終わり。空襲が頻発するようになった。
街は焦げた臭いに包まれ、夜空は赤く染まる日が増えた。遠くで爆発音が響くたび、工場の窓ガラスが震えた。
ある夜、工場の帰り道。
焼け跡を歩く。黒く焦げた木材の残骸。崩れた壁。溶けた瓦。足元に何かが転がっていたが、弦は見ないようにした。
同僚がぼそりと呟いた。
「このままじゃ、負けるんじゃねえのか」
弦は足を止めた。
周囲を見回す。誰も聞いていない。焼け跡には、二人だけだった。
「……聞かれるぞ」
弦はそれだけ答えた。本当はわかっていた。でも、口に出せなかった。
同僚は肩をすくめ、煙草に火をつける。トウモロコシの皮で巻いた、焦げ臭い煙草だ。マッチの光が、一瞬だけ顔を照らした。疲れ切った、諦めたような表情だった。
「わかんねえよな。わかんねえまま、死ぬのかもな」
煙が夜闇に溶けた。
弦は何も言えず、ただ強く拳を握った。
口に出すだけで罪になる時代だった。真実を語ることが、犯罪になる時代だった。
*
一九四五年三月十日。
夜。深川の家に戻ると、母が避難袋を詰めていた。手つきが慌ただしい。
弦は机の上にノートと鉛筆を置いたまま、外の空を見上げた。
空が割れたみたいに赤い。焼夷弾が屋根を貫くたび、油の雨が降った。遠くで悲鳴が聞こえる。爆発音が、風に乗って届く。
「早く来なさい、焼けるよ!」
母の声が、焦りと恐怖で震えている。
「少しだけ……、これを持ったらすぐ行く!」
弦はノートを胸にしまった。安全な場所に着いたら、今日見たこと、感じたことを残したかった。この地獄を、言葉にしておきたかった。
突然、轟音が響いた。
耳が割れそうな音。家が揺れる。天井から埃が降ってくる。
爆風。
炎の壁。
叫び声と風。熱風が顔を焼く。息ができない。
気づけば、弦は瓦礫の下にいた。
耳鳴りがする。体が動かない。何かが体を押しつぶしている。痛みが、全身を駆け巡る。
何とか這い出すと、見慣れた景色は消えていた。
家があった場所には、瓦礫の山。母がいた場所には、炎。
街も家も、家族の声も消えていた。
弦は叫んだ。声が枯れるまで叫んだ。喉が裂けそうになるまで。
返事はない。
ただ炎の音だけが、ゴォゴォと耳に響いていた。遠くで誰かが泣いている。叫んでいる。でも、母の声ではなかった。
足元に焼けた新聞が貼りつく。
「必勝」「皇国」「栄光」――すべて黒く焦げて、字の形を失っていた。嘘だけが、灰になって残っている。
「……俺だけが、生き残った」
弦の声は、炎の音にかき消された。
焼け跡で拾ったノートは半分炭化していた。ページの端が焦げて、黒く丸まっている。
それでも弦はそこに震える手で、見たものを書いた。鉛筆の芯が、何度も折れた。
涙がノートに滲んだ。文字が滲んで読めなくなる。それでも書き続けた。
なぜ自分は生き残ったのか。
なぜ家族は死んだのか。
勝利の放送は何だったのか。
弦には見えなかった。ただ、灰が美しく舞った。すべてが灰になった世界が見えた。
翌朝、弦は焼け跡を歩いた。
どこまでも続く灰色の景色。空も、地面も、すべてが灰色だった。
煙がまだくすぶっている。鼻を刺す、焦げた匂い。人間の、建物の、すべてが燃えた匂い。
焼けた木材。溶けた金属。黒焦げの何か。
死体が転がっていた。黒く炭化した、人の形をした何か。
弦は目を逸らせなかった。逸らしてはいけないと思った。
これが、戦争だ。
これが、真実だ。
新聞に載らない、本当の戦争だ。
弦はノートを開き、震える手で書き記した。涙で文字が滲む。誰かに聞いて欲しい。読んで欲しい。そう思った――。
*
戦が終わったのはそれからしばらくたってからだった。
工場もなくなり、行くあてもない。
焦土の東京を歩くと、焼けた空き地に紙切れのような看板が立っていた。風に揺れている。
『大衆画報社 記者・編集補助募集(経験不問)』
弦は立ち止まった。
記者。言葉を扱う仕事。
迷いながらも、弦は看板の住所を頼りに、雑居ビルの一室を訪ねた。階段は薄暗く、踏むたびにきしんだ。
入ってみると、埃と煙草とインクの匂いが充満した一室。
机に腰かけた男たちは、戦地帰りや新聞崩ればかりだった。皆、疲れた顔をしている。でも、どこか生き生きとしていた。
壁には女性のポスターが貼られ、床には原稿用紙が散らばっている。インクの染みがあちこちにある。
「新聞社はGHQに取られた。だから俺たちは大衆誌でやる。真実だろうが下品だろうが、読まれりゃ勝ちだ」
「カストリみたいなもんさ」
男たちは笑いあった。煙草の煙が、笑い声と一緒に天井に上っていく。
弦はためらいながら言う。
「俺……書けます。少しだけ、ですけど」
声が震えている。でも、言わなければならなかった。
編集長は煙草をくゆらせながら、弦を見た。
五十がらみの男。戦地から戻ったのか、片目に眼帯をしている。顔には深い皺が刻まれていた。
「書けるって、何を?」
「記事、です。日記みたいなものを、ずっと書いてたんです」
「日記ねえ。見せてみろ」
弦は焦げたノートを取り出した。手が震える。
編集長はページをめくり、読む。煙草の灰が、ノートの上に落ちた。
長い沈黙。弦の心臓が、大きく鳴っている。
それから編集長は顔を上げた。その目は、どこか優しかった。
「焦げ臭ぇな。……気に入った。明日から来い」
「本当ですか!?」
弦の声が、上ずった。
「ただし、嘘も書いてもらうぞ。カストリ雑誌ってのはそういうもんだ」
弦は一瞬迷ったが、うなずいた。
これが現実なのだ。でも、それでもいい。いつか真実を書けるなら。いつか、このノートに書いた真実を、世界に伝えられるなら。
生き残った自分にできるのは、書くことだけだった。
*
それから四年。
夜、印刷機の音が響く編集部。ガタガタという機械音が、規則正しく部屋を満たしている。
弦は焦げたノートを机の引き出しにしまい、新しい原稿用紙を引き寄せた。原稿用紙は真っ白で、まだ何も書かれていない。
編集長が声をかける。
「城井、次は東京ローズの調査だ」
「東京ローズ……ですか」
「ああ。戦争の最中、敵国の言葉で放送を流していた女だ。読者は食いつくぜ」
「わかりました」
弦は原稿用紙に向かった。ペンを握る。
東京ローズ。どんな女性なんだろう。
今、彼女はどんなふうに生きているんだろうか。戦争を、どう生き延びたんだろうか。
嘘でも幻でもいい。
彼女たちの中に本当がひとつでも残っているなら――それを掬い上げる。
戦時中から続く、権力と嘘の闇ごと。
それがあの日家族を救えなかった自分への赦しになる気がした。贖罪になる気がした。
弦はペン先を見つめ、ひとつ息を吐いた。
「奪われた声を、取り戻す。……それが俺の仕事だ」
ペンが、紙の上を滑り始める。インクが文字になる。言葉になる。
焼け跡から拾い上げた言葉で、弦は生きていく。
紙と灰のあいだで、真実を探しながら――。
その「声」に出会うまで、あと少し。
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上海・午後三時 / 鳴瀬明
一九四一年、上海。国際租界の華やかさが、少しずつ閉ざされていった。
黄浦江を行き交う船の汽笛。租界に残る洋館の窓から漏れる灯り。舗装された通りを走る路面電車の音。戦前の賑わいはまだ街のあちこちに残っていたが、それは次第に薄れていく残り火のようだった。
街を満たす空気は重く、戦の匂いが混じっていた。検問所が増え、夜の街に憲兵の足音が響く。街角には軍のポスターが貼られ、租界の境界線では銃を持った兵士が立っていた。
明は新任の軍楽隊員として、上海駐屯部の慰問演奏に参加していた。軍服の重さが肩に食い込む。二十四歳。音楽学校を出て、そのまま軍楽隊に配属された。ドラマーとして。
日本租界のミュージックホール。
舞台袖の薄暗がりで、明はスティックを構えていた。客席からは酒の匂いと女たちの笑い声が聞こえてくる。ステージには赤い照明が当たり、煙草の煙が紫に染まっていた。
その時、ピアノの音色が聞こえてきた。
――音が、澄んでる。
軍服姿の客たちのざわめき。酒と煙草の匂い。女たちの笑い声。
その中で、その音だけが別の場所から響いてくるようだった。透明で、どこか哀しい音だった。まるで戦争のない世界から届いたような、そんな音だった。
明は袖に視線を向けた。
演奏を終えた彼女が、楽屋裏に入ってくる。
黒いドレスを着たピアニスト。ミュージックホール専属の。髪を後ろで束ね、汗で額が少し光っていた。
「……君の音、澄んでるな」
気がつけば、声をかけていた。
彼女が顔を上げる。少しだけ、警戒したような目。舞台を降りたばかりの女に声をかける軍人など、碌なものではないと知っているような目だった。
「それ、皮肉?」
「いや、本気だ」
明は煙草を取り出しながら言った。
「こんな夜でも、生きてる音がするなんてな」
彼女の表情が、ほんの少しだけ緩む。
外では港のサーチライトが回り、客席では軍人たちが婦人を連れて騒いでいる。ジャズの残響が壁に染みついている。
でも、ここは静かだった。
初めての共演が終わったあと、明と彼女は裏口で煙草を分け合った。
裏口は細い路地に面していて、湿った石畳の上に街灯の光が落ちていた。どこかで犬が吠えている。遠くから人力車の音が聞こえてくる。
明が一本差し出すと、彼女は首を横に振った。
「私は吸わないの」
「じゃあ、俺が代わりに煙を吐くよ」
明が軽口を叩く。
彼女が小さく笑った。
「名前は?」
彼女が聞いた。
「明」
明が答える。
「私も、名乗るべきよね」
「そのうちでいい」
彼女は煙草の煙を見つめながら、自分の名前を告げた。
二人のやりとりを、通りがかった憲兵がちらと見る。軍人と民間の女が言葉を交わす、それだけで誰かの噂になる時代だった。
互いの名前を名乗るときの、微妙な沈黙。
それが二人の始まりだった。
それから、慰問演奏やリハーサルのたびに、二人は顔を合わせるようになった。
冗談や軽口が増える。次第に親密になっていく。
外の世界が崩れていくほど、音の中だけが二人の避難所になっていった。
「君のピアノが止まると、俺の手も止まる」
ある日、明がそう言った。
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「……なら、止めないで」
*
戦況が悪化しつつあった。上海は表向きはまだ平穏を装っていた。
租界の街並みは変わらず華やかで、カフェやダンスホールには人が溢れていた。しかし誰もが何かを恐れているような、そんな空気が街を覆っていた。
二人は公には恋人同士とは言えず、控室や舞台の合間に密かに会う関係だった。
演奏後の夕暮れ。
軍人がよく使う喫茶店。
明と彼女は紅茶を飲みながら、静かな時間を過ごしていた。店内には英国風の家具が並び、壁には古い絵画が飾られている。戦前はイギリス人が経営していた店だったが、今は日本人の手に渡っていた。
周囲には軍服姿の男たちが何人かいて、時折こちらを見る視線を感じる。窓の外を通る軍用車の音に、彼女が一瞬背筋を伸ばした。誰にも知られてはいけない関係だと、二人とも分かっていた。
「上海って、不思議な街だな」
明がカップを置きながら言った。
「さっきまで人が倒れてた通りで、今は子供がアイス食べてる」
彼女が窓の外を見る。
路面電車のベル。木のベンチに座る老人。シルクのスカーフを売る声。行商人の声。自転車の音。
戦争の中でも街は音を止めない。
「音が鳴ってるのはいいな」
明の声にどこか虚無が混じっていた。
「ねえ」
彼女が小さく言った。
「ゆっくり紅茶が飲める日が来たら、……何してるかな」
戦争が終わったらとは言わなかった。そんなことはとても言えない時代だった。
「……その時も叩いてる」
明が答える。
「きっと、君の横で」
彼女は微笑み、ただ紅茶を一口飲んだ。
苦い。でも温かい。
店を出たあと、二人は並んで歩いていた。
夕暮れの街。空が赤く染まり、ビルの影が長く伸びている。
外灘の方角から、汽笛の音が聞こえる。
その時だった。
空襲警報の試験放送が、街に響き渡った。
明は咄嗟に彼女を抱き寄せた。
建物の影に身を寄せる。
彼女の肩を抱く明の手がわずかに震えていた。心臓の音が聞こえる。彼女の、そして自分の。
サイレンが止まる。
二人は、距離が近いまま目が合った。
「……誤報、か」
明が小さく言った。
彼女は何も答えず、ただ明の胸に額を預けた。
心臓の音が聞こえる。生きている音が。
明はまだ純粋に音楽があれば、生きていけると思っていた。
けれどその鼓動を感じながら、ふと気づいた。
自分が叩いているのは、もはや戦場のための音ではない――彼女のための音だ、と。
彼女のピアノを聴くたび、胸の奥で何かが静かに弾けている。
この音が止まれば、世界が――止まる。
それが恋なのか、生きる意志なのか、もう区別がつかなかった。
ただ一つ分かったのは、彼女の音が消えるのが怖くてたまらない。そういうことだった。
*
一九四四年――快晴の午後。
明が一枝のジャスミンの花を手に現れた。
彼女の家の庭では白い光がテラスを満たし、ジャスミンの香りが風に乗って漂っている。鳥の声が聞こえる。穏やかな午後だった。
「久しぶりだな」
明が言った。甘い香りに、ふと一年前、この庭で彼女と初めて結ばれた日のことを思い出した。上海はあの時よりさらに悪くなっていた。
「二ヶ月ぶり」
彼女が答える。
「……そんなにか」
明が小さく笑った。
「長いな」
彼女は何も言わず、明に抱きついた。
距離が一気に近づく。
明も彼女を抱きしめ返した。彼女の髪からジャスミンの香りがした。
庭のジャスミンが、風に揺れている。
「……綺麗だな」
明が彼女に花を渡す。
彼女はそれを受け取って、少しだけ笑った。
でもその笑顔は、どこか寂しげだった。
「次の慰問、また前線らしい」
明の声に、いつもの軽さはなかった。
「……もう行かないで」
彼女が小さく言った。
「叩かなきゃ、生きてる意味がない」
明が答える。
「待ってるんだよ、戦地の兵隊が」
彼女は何も言えなかった。
「でも」
明が続けた。
「君がいるこの場所にいたい」
彼女の目に涙が滲んだ。
「次に音を合わせるのが最後かもな」
明が言った。
死の覚悟が言葉の奥に滲んでいた。
「いい演奏にしましょうね」
彼女は涙をこらえながら、明の手を強く握った。明は彼女が泣くところを見たことがなかった。そこが好きだった。
それが二人の、最後の約束になった。
*
夏の上海は郊外まで爆撃が及び始めていた。
その夜、ミュージックホールに警報が鳴り響いた。
舞台袖の扉の向こうでは、係員が観客を地下の防空壕へ誘導していた。
全員が防空壕へ避難する中、明と彼女だけが取り残された。
客席は空っぽで、椅子だけが並んでいる。舞台の照明は消え、暗闇の中に二人だけがいた。
爆音。
建物が揺れる。天井から埃が降ってくる。
遠くで何かが崩れる音がした。
――このまま生きても、別々に死ぬだけじゃないか。
明はそう思った。
「……怖くなくなる方法を知ってる」
明が言った。
間。
「明?」
彼女が振り返る。
明は懐に手を入れた。軍部からもらった〈角砂糖〉を取り出す。
掌の上の小さな白い錠剤を見つめた。噂では、これを口にすれば恐怖が消えるという。仲間が試したことはあったが、明は一度も手を出したことがなかった。
これが今から二人の運命を変えるのだ。
「これは……」
「怖くなくなる薬だ」
明が言った。
「……死ぬまで叩ける。君と」
彼女はすぐにそれが何かを察し、涙を浮かべ、頷いた。ここで離れ離れになったら、もう二度と会えない。二人ともそれが分かっていた。
「君となら、死ぬのも怖くない」
ほんのわずかにためらってから――明はそれを舌に乗せた。
ひどく甘い。なのに、冷たい。
痺れるようなその味に、胸の奥がぞくりと震えた。
そのままゆっくり彼女に口づけた。
「これで、俺たちは同じ音になる」
二人は〈角砂糖〉を口にした。
世界がゆっくりと変わり始める。
色が鮮やかになり、音が遠くなり、体が軽くなる。恐怖が消えていく。
明はドラムに向かった。
彼女はピアノに向かった。
演奏が始まる。
ピアノとドラム。サイレンと爆音。ビルが瓦解する音。人々の悲鳴。
美しい、と明は思った。世界が壊れるこの音がこんなにも美しいなんて――。
音が重なる。演奏が完成していく。二人の音が、一つになる。
これが最後の演奏だと、二人とも分かっていた。止めることはできなかった。止めたくなかった。
閃光が走る瞬間、世界が反転した。
叩くたびに彼女の息が重なった。鍵盤の音と吐息が混ざり、熱が肌を焦がした。
唇が何度も重なり、肌が重なり、互いの指が身体をなぞる。汗と涙の味。胸の奥で鳴る鼓動が、リズムと一つになっていく。
彼女の声が音に溶け、音が彼女になる。
世界の輪郭が崩れ、甘い匂いが移る。
「……ああッ」
閃光。
崩落。
明の視界が真っ白に染まった。
全てが終わった時、明は彼女の奥に精を吐き出した。生きている証のように、愛を、生を確かめるように。
「ああ……君の音が……俺を生かしてた」
明は独白した。
翌日、明は駐屯地へ戻り、街には避難命令が出た。その後、彼女の行方は分からなかった。
後で伝え聞いたところによると、彼女の家は爆撃で全壊し、家族は全員死んだらしい。
焼け跡に、風の音だけが残っている。灰の匂いが鼻を突く。黒く焦げた木材。溶けた金属。すべてが灰になった世界であの夜だけが色彩を放っている。
明は顔を上げた。
「俺たちは、やめなかった。やめたく――なかった」
答える人間はもういない。通りに焦げたジャスミンの花が一輪落ちていた。
それが二人の恋の終わりだった。
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